全米が泣いたwwwっていう映画で泣いたらいかんのか?

先日、友人と「最近映画を2時間観れない。特に静かな映画だと途中で寝てしまう。というか、そういう映画は最初から観る気にもならない」という話で一致した。

若いころはそんなことなかったのに。むしろ、結構好きでよく観ていたのに。

カンヌとかベルリンとかの映画祭で日本人の作品が「○分間に渡るスタンディングオベーションを受けました」とかいうニュースがあれば、昔だったら観てみたいと思ったのに。

いまでは「こいつらいっつもスタンディングオベーションしてんな」くらいにしか思わなくなってしまった。

なんか最近、あの手の映画って観るのめんどくさいんだよね。

蛭子さんの畜生コメントに共感できるようになったわけ

昔、何かの深夜番組で、蛭子能収がホテルの一室で映画を一本観る様子をただただ映す、というコーナーがあった。(あの番組名が何だったか知ってる人がいたら教えてほしい!)

その日は、「誰も知らない」を見せられていた。

蛭子さんは、最初はベッドの縁に座ってホテルのテレビ画面を見ていたが、途中からベッドに横になり始め、そのうち眠ってしまった。ホテルで眠るだけの蛭子さんの画が続くのはなかなかシュール。

「誰も知らない」は、まだ少年だった柳楽優弥がカンヌで最優秀主演男優賞を獲った、是枝裕和監督の作品で2004年公開の映画である。

親のネグレクトを受けて捨てられた子供たちが、その事実を誰にも知られずに困窮した生活を送る話で、重たい映画。

そんな映画で「よく眠れるな!」と、当時の私は思ったけれど、いまなら間違いなく寝ると思う。

映画の感想を求められた蛭子さんのコメントはたった一言。「意外と知られてた。近所の人とかに」

番組的には「えぇ・・・」という呆れた笑いを誘っていたし、私もそのとおりにヘラヘラしていた。

しかし、いまなら分かる。蛭子さんのその言葉の真意が。

映画でも小説でも、何かのストーリーが創作される場合、それは論説文で言うところの序論と結論が省かれて、本論のなかの具体例だけが切り抜かれたようなものだと思っている。

「これから何について語るか」の序論と「つまりこういうことだ」の結論がないので、「この具体例だけで私が何を伝えたかったか、みなさんで感じて考えてください」ということになる。

具体例が抽象的であるほど、作品を提供される側は神経と感受性を研ぎ澄ませなければならない。

風景が映し出されれば登場人物の心象風景を疑い、役者のちょっとした仕草や表情とか科白と科白の「間」に気を配り、チラ見せされていた伏線がきちんと回収されたことを確認しなければならない。

それらを見落とさずにメッセージを受け取ることができたことに満足し、気づけた自分の鋭さよ、みたいな謎の優越感に浸る。

ハリウッドじゃ無理だよな、と通ぶって、分かりやすい映画で喜ぶ人の気がしれない、とか思っちゃうまでがフルコース。

現実社会での類似現象に思いを馳せ、自分の生活にも投影させたりして、食後の満腹感をなおも楽しむ。

若いうちは、そういう心の動きについていけるけど、だんだん面倒になってくる。胃もたれするようになってくる。

「このCGすっげえだろ!?」というだけのメッセージのほうが断然ありがたい。「おお!すっげえな!」で済みますもの。

蛭子さんだって、面倒くさかったんだよ。別に蛭子さんがサイコパスだからあんなコメントをしたわけじゃないんだ。

軽薄な感動で素直に泣きたいお年ごろ

なんでそういう映画を面倒に感じるようになるかって、日常生活ですでに同じようなことを散々やってるからなんじゃないかと思う。

たいした事件など起こらない生活でも、リアルな方がよっぽど面倒で忙しい。まがりなりにも主人公だしな。

フィルムで切り取るまでもないような些細でどうでもいいことにまで、思い悩んだり気を遣ったりしないといけない。

だったら映画は娯楽に振り切った方が単純に楽しい。

そういえば、去年の年末にスターウォーズをエピソード4から3まで(こういう表現で合ってる?)一気に見たけど、全然眠くならなかった。

若気の至りで「ハリウッドw」とかバカにしてたから、これまでスターウォーズを観たことがなかったのだが、面白くて一日に3本ずつ観た。

この毒にも薬にもならない感じが素晴らしい。

あえての感想といえば、ヨーダが中3の時の担任にそっくりなことに気がついたので、あの頃観てればよかったな、というくらい。

先生があんなに厳しかったのはジェダイの騎士を育てるためだったのかもしれない。言うことを聞かない私はフォースの使い手になり損ねた。

なにはともあれ、特に何も考えないで楽しめるもの、というのは貴重である。

考えすぎると素直さや直感をないがしろにしてしまう。積み重ねてしまった経験のせいで偏屈になりがちなとき、考える意味を与えないほどの軽さこそ、実は意味がある。

ハリウッドを甘く見ていたあの頃の自分は、まだまだ青かった。

年を取ると涙腺が弱くなる。

若いころだったら、「そんなことで泣いちゃうの?」ということでも簡単に泣けてしまう。

Youtubeの感動CM集とかでボロボロ泣けるし、定番の安いお涙ちょうだいでも「くそっ、こんなんで!」とか思いながらもウルウルきてしまう。

涙もろくなるのは、たぶん、感受性が豊かになるからではない。若い方が感受性が豊かなのは確実である。

涙もろさは年の功だ。若くて生真面目に色々吸収しすぎるせいで何かと頭でっかちだった私たちが、そのままでは生きづらいことに気づき、無駄に色々考え込まない素直さと軽薄さを身につけた証拠なのだ。(素直で軽薄な蛭子能収のように・・・うん、それはなんだかいやだけど。)

あっさり泣いて、あっさり忘れるくらいがちょうどいい。

全米が泣いたら漏れなく泣ける素直さが、私たちを生きやすくする。

友よ、きっとそういうことだ。今度、眠らずにいられそうなやつ観に行こう!

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