『君たちはどう生きるか』を大人になってもう一度読む

忘年会のシーズンである。わざわざ忘れる機会を設けなくても、近頃どんどん忘れていく。

腹立たしいことも恥ずかしいことも、都合よくサクサク忘れてくれる私の脳は大変に有難い機能を持っていると思う。

しかし忘れているといえども、脳から抹消されたわけではなく、思い出さないだけなのだ。何かのバグなのか、突如として「太平洋ベルト」という言葉だけが浮かんできて焦った時に、そういうことを改めて実感したりする。

太平洋ベルトってなんだっけ…。

ところで2018年といえば、私は本年いまさらFacebookを始めた。

友達のTさんが、ご自身が読んだ興味深い記事をFacebookでシェアしてくれるのが実は秘かな楽しみである。

ゴリゴリにアルゴリズムされた私のYahooニュースなんて、もっぱらプロ野球情報かジャニーズのゴシップで偏りが激しいし、ご丁寧に関連記事など提案してくれなくても自分で能動的に探すのだって興味のある記事だけなのだ。Twitterでフォローしているアカウントも結局は自分の興味に即した記事を配信してくれるからで、インターネットやSNSで世界は広がったかに見えて、意外と偏狭なところで生きがちだ。

テレビや新聞ならバランスが取れているのかといえば、当然テレビ局や新聞社の思想の偏りがあるわけで、まぁこの辺は論ずる必要もなかろう。

そこへきて、他人が読んでいる記事を読む、というのはなかなか面白い。自分では絶対に辿り着けない記事に遭遇できる。自分では知る由もなかった問題に気づく。

とある社会問題が、無関心な人はいても無関係な人はいない、ということを教えてくれたのもTさんのシェアしてくれた記事である。

さて先日、そんなTさんのシェアした記事に、コペルニクスより前に地動説に気づいていたルメートルという人がいたというものがあった。

物理学者であるとともにカトリックの司祭でもあったルメートルは、地動説に気づきながらも発表できなかった、というものだ。

ならばやっぱり地動説はコペルニクスのものだな、と思ったりして、大変面白く読んだのだけど、その時ふと、忘却の彼方からまた何かが思い出された。

「そういえば、コペル君とかいう少年がオッサンと文通している話があったな」

読書感想文が苦手だった子供時代を思い出す

小学生の頃、日能研の国語の模試とか問題集で、コペル君の話はやたらと抜粋されていた気がする。

けっこう面白くて問題を解くより読むのが楽しかった記憶があるが、はて、あれはなんという本なんだろう。

「コペル君」でググったら、『君たちはどう生きるか』というタイトルの書籍だということが容易に判明した。池上彰が取り上げたり、昨年には漫画化したりしたようで、実はプチ再燃していたらしい。で、さっそく買って読んでみた。

この本は、1937年に新潮社から出版されており、著者は吉野源三郎である。1937年といえば、盧溝橋事件が起きた年であるが、この本の時代背景を考えるにあたっては前年に起きた2.26事件の頃、と思った方が分かりやすそうな気がする。とはいえ、コペル君の家は裕福なこともあり、昭和恐慌の荒んだ生活を送るでもなく、のんびりとした空気が流れている。

そして、内容は全く古臭くなく、いまなお、私たち人間が人間として生きるうえで大切なことを教えてくれている本だということが分かった。それはとりもなおさず、人間が人間として生きるうえで大切なことは不変であるということを意味するのだろう。

ちなみに、コペル君はオッサンと文通しているのではなかった。お母さんの弟である叔父さん(大学を卒業したばかりでオッサンではない)が、まだ少年のコペル君が大人になったら読んでほしいと願って、コペル君が日常の中で気づいた社会の成り立ち、あるいは日々体験する学校での出来事や友達との関係などについて、人間が人間らしくどう生きるか、ということを問いかけながら書き綴っているのだった。

このオッサン、いや叔父さんからのメッセージが大変に示唆と含蓄に富むもので、この本が子供に読ませたい道徳書的な立ち位置でロングセラーになっていることは頷ける。

でも、子供には難しくないか?

実際、子供の頃に読んだ私は、「面白い」という感想のほかには、コペル君とオッサンの文通の物語ということくらいしか記憶に残らなかった。しかも、その記憶すら正しくなかったわけで、当時の自分がこの本から何か学んだとは到底思えない。

ところでちょっと余談だが、子供が読書感想文を書くのが苦手なのにはわけがあると思う。大人なら、自分の経験や知識と本に書かれた内容の類似性を読み取り、現実の世界に置き換えることができる。なんなら、読書するときの態度が、それを目的にしていることもある。しかし、子供はその経験や知識が圧倒的に足りないし、本を読むということはそこに書かれた字面を追うことが主な作業で、まさかその内容をほかの何かに置き換えることなど考えない。

読書感想文の書き方で、「何が心に残った?」「それはどうして?」「自分ならどうする?」という問いかけをしてやるとよい、とかいうアドバイスを見かけるけれど、それに答えるのは子供には難しい。多くの場合の感想は、面白かったかつまらなかったかに集約される。そして、面白かった、という場合、ストーリーの分かりやすさと文章の平易さがものを言うわけで、どう思ったもクソもない。全米が泣いただけだ。

読書感想文を書かせるときは、読んだ後に問いかけてはもう遅い。読む前に、自分と同じだと思うこと、自分と違うと思うこと、を読みながら書き出せ、と指示する方がよい。それだけでそれなりの感想文になる。あらすじを書かせてはいけない。最初にどんな本なのかを書く、というひな形があるが、あれは間違いだ。要約は、長い話の大意をつかむ読解力と文章を構成しなおす論理的な思考が求められる。それを最初に書かせては、もう書くことそのものを投げ出したくなる。私自身、読書感想文でいつもここに躓いた。感想文なのだから、感想だけ書けばよかったのだ。

「痛み」もまた、人間が生きるうえで大切なこと

話が脱線してしまったので、『君たちはどう生きるか』に戻ろう。

コペル君が自分の心の弱さゆえに友達との約束を破ってしまい、ひどく後悔し落ち込み、その心の苦痛で寝込んでしまった。

以下は、そのことを知った叔父さんがノートにしたためたものの抜粋である。

僕たちは人間として生きてゆく途中で、子供は子供なりに、また大人は大人なりに、いろいろ悲しいことや、つらいことや、苦しいことに出会う。もちろん、それは誰にとっても、決して望ましいことではない。しかし、こうして悲しいことや、つらいことや、苦しいことに出会うおかげで、僕たちは、本来人間がどういうものであるか、ということを知るんだ。

心に感じる苦しみや痛さだけではない。からだにじかに感じる痛さや苦しさというものが、やはり、同じような意味をもっている。

―中略―

からだに痛みを感じたり、苦しくなったりするのは、故障ができたからだけれど、逆に、僕たちがそれに気づくのは、苦痛のおかげなのだ。

苦痛を感じ、それによってからだの故障を知るということは、からだが正常の状態にいないということを、苦痛が僕たちに知らせてくれるということだ。もし、からだに故障が出来ているのに、なんにも苦痛がないとしたら、僕たちはそのことに気づかないで、場合によっては、命をも失ってしまうかも知れない。

―中略―

同じように、心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じて、そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。そして僕たちは、その苦痛のおかげで、人間が本来どういうものであるべきかということを、しっかりと心に捕らえることが出来る。

『君たちはどう生きるか』吉野源三郎著より

痛みとは体からのSOSだという記事を、以前書いていたのでリンクを。

コペル君が寝込んでしまうくだりは、『君たちはどう生きるか』の山場と言ってもよい場面で、そこでこの「痛み」についての言及があることは感慨深い。

確かに、体だけでなく、心の痛みも同じように、私たちが生きるために大切なことなんだなぁと、まぁ子供の感想のようなことを思ったのだけど、やっぱりこれ、子供には難しくないかい?

子供のうちに読んでおくのもよいけれど、できれば大人になってもう一度読みたい本である。

Facebookで地動説の記事を読まなければ、忘れたまま思い出すこともなかったかもしれない「コペル君」の本。

子供の頃に理解できなかった本に、大人になって再開できたのは嬉しいことだ。

そう考えると、なんでもすぐに忘れてしまうとはいえ、不要なときには忘れて、必要なときが来たら思い出す仕組みになっているのかもしれない。

もちろん、子供の時分に読む機会がなかった大人にも、この本はオススメしたい。他人が読む記事と同様、他人が薦める本もまた一興。

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